2007年度第2学期 「哲学史講義」「ドイツ観念論の概説」        入江幸男
           第9回講義(2007年12月5日)
 
           §9 ドイツ観念論の美学
参考文献:
1、小田部胤久「ヘーゲル美学における芸術の終焉と新生」(加藤尚武編『ヘーゲルを学ぶ人のために』世界思想社、2001、所収)
2、神林恒道『シェリングとその時代』行路社、1996
 
1、18世紀における「芸術」と「美学」の誕生
 
「「芸術」という概念自体、18世紀の中葉に成立したものである。それ以前は、個々のジャンルを一つにまとめる概念は存在しなかった。つまり、「芸術」は近代において誕生した。」(小田部227、以下、頁数だけを記す)
「同様に、芸術一般を対象とする学問としての「美学」も18世紀中葉に始めて生まれた」227
 
aestheticaという言葉は、ライブニッツ学派に属するバウムガルテン(Alexander Gottlieb Baumgarten)が1735年に造語したものである。」小田部227
 
バウムガルテン『美学』(1750
カント『判断力批判』(1790)
 
2、Kant の美学(芸術学ではない?)
カントは『判断力批判』において自然の合目的性を論じるが、「自然の合目的性」は自然をそのように判定する主観にとってのみ妥当するに過ぎない。この判定をするのが「反省的判断力」である。
 
「美的判断は、対象を概念的・客観的に規定するのではなく、対象を認識能力(カントの言葉を用いれば悟性と構想力)との合目的性に即して判定するところに成り立つ。悟性と構想力の自由な遊動を可能にするのにふさわしい対象こそ「美しい」と呼ばれるのであり、「美しい」という述語は対象を客観的に規定するものではない。」小田部28
 
■趣味判断の4契機
1、質「趣味は一切の関心を欠いた適意もしくは不適意によって、ある対象やある表象様式を判定する能力である。このような適意の対象が美しいと呼ばれる。」
趣味判断は、適意(Gefallen)をもつが、それは関心(Interesse)をもたない。これに対して、快適なものや善は関心をもつ。
2、量「美しいのは、概念を欠いたままで普遍的に気に入るのである」
  趣味判断は、単称判断である。
3、関係「美はある対象の合目的性の形式であるが、それはこの合目的性が目的の表象を欠いたままその対象において知覚される限りにおいてである」
4様相「美しいのは、概念を書いたまま、必然的な適意の対象として認められるものである」
 
■趣味の二律背反
定立「趣味判断は諸概念に基づいていない。というのも、そうではないとすると、趣味判断について論議される(証明によって決定される)ことができるからである。」
反定立「趣味判断は諸概念に基づいている。というのも、そうではないとすると、趣味判断が異なっているにもかかわらず、趣味判断については論争される(他のひとびとがこの判断に必然的に一致することを要求する)ことすらできないからである。」
 
解決「趣味判断は、規定された諸概念に基づいていないが、規定されていないある概念(すなわち、諸現象の超感性的な基体についての)に基づいている」
 
 
(カントの趣味判断(美の判定)には、歴史性の入る余地がないという批判を、ガダマーが行っている。ヘーゲルによる「自然美」への批判もある。)
 
2、シラー 『美的教育についての書簡』1795
シラーは「自然と自由を媒介するものとして美を捉えるというカントの構想を継承しつつ、それを一歩進めて、美こそ自然と自由との調和ないし統一であると論じ、美を最高位に置いた(それに愛し、カントにおいては、美は善にいたる前段階に過ぎない)。この点でシラーは、カント以後の美学の流れを決定付けたのである。」小田部230
「しかし、シラーは、美を捕らえる第三の能力があるとは考えず、感性と理性−彼の術後を用いれば「素材衝動」と「形式衝動」−との「相互作用」のうちに美は捉えられると見なしており、この点において彼はなおカントの制約の内部にとどまっていた」小田部231
 
「カントの否定した知的直観を美的直観として捕らえ返したのがヘルダーリンとシェリングである。」231
 シラーとシェリングのいわば中間に立つのが、フィヒテである。
 
2、Fichte の芸術論
 
フィヒテは『道徳論の体系』1798の「§31 芸術家の義務について」において次のように語っている。
 
「美的芸術は、学者のように悟性だけを陶冶するのではなく、道徳的な民衆教師のように心胸だけを陶冶するのでもなく、両者を一つに合一した全体的人間を形成する。芸術が向かうのは、悟性でも心胸でもなく、その能力が合一されたあり方をしている心の全体である。それは、二つのものから合成された第三のものである。」(『フィヒテ全集』第9巻、訳420
 
芸術、超越論的観点を通常の観点にする」(421
「哲学者は労働によってこの視点へと、自己と他者を高める。美しき精神は、それをはっきりと考えることなく、その観点にたち、彼の影響を受ける人々を、それときづかずにその観点へと高める。」(GI,5,307,FW IV,478、訳421
「世界は、超越論的観点では作られるのに対し、通常の観点では与えられる。美的観点では世界は与えられるが、世界がいかに作られたかというその観方に応じてのみ与えられるのである。世界、現実に与えられている世界、つまり自然(なぜなら、私は自然についてしか語っていないのだから)は、二つの側面をもっている。自然は、我々の制約の所産である。自然は、我々の自由な、観念的な働きの所産である。(我々の実在的能作性のではない)。第一の見地では、自然はいたるところで、制約されている。後者の見地では、自然はいたるところで、自由である。最初の見地は、通常のものであり、第二の見地は、美的なものである。」
 
フィヒテにおいては、芸術は、超越論的な観点に高めるための手段である。シェリングのように芸術を高く位置づけるのではないが、しかし超越論的な観点を「通常の観点にする」という言い方は、知的直観を「客観的にする」というシェリングの主張と似たところがある。
 
3.Shelling 『超越論的観念論の体系』1800の美学
 
「それ[『超越論的観念論の体系』]は、観念論と称しながら、実は自然と精神を相互に対照させつつ、叡智の自覚の歴史を、段階的に記述しようとする試み、つまり無限に生産する客観(自然)と無限に活動する主観(精神)の相互透入を課題とする。観念=実在論あるいは実在=観念論の企てなのである。
 そのためには実在的世界と観念的世界の予定調和が見出されなけばならない。自由な行為は意識的に生産的である。この同じ働きが世界を生産する際に、無意識的に生産的であると仮定すれば、その予定調和は現実となり、矛盾は解決される。この無意識的活動と意識的活動の同一が、シェリングの自我である。この無意識的と同時に意識的活動が、無意識的に働くと、有機的自然が合目的的に生産される。有機的自然の生産活動は無意識的に始まり、意識的に終わる。つまり、生産活動そのものは蒸し器的であるが、その所産は目的意識的性格を有するのである。ところで、自我の本質は自覚にある。したがって彼が企図した体系が完成されるためには、この無意識的と同時に意識的活動がさらに意識的に働かなければならない。そこにおいて自我の原理は完結するのである。これが天才の芸術活動である。芸術作品は芸術家の活動において意識と意図が働くがその所産のうちに無意識的なものが認められる。いってみれば、有機的自然所産と芸術作品において必然と自由がちょうど、逆の関係で統一されているのである。
 シェリングによれば、芸術家の美的直観とは、哲学者の知的直観が客観化されたものであり、そこにおいて自我の絶対同一という哲学の最高の問題が現実に顕示されるのである。哲学者はこの芸術をその唯一、真にして永遠のオルガノンとみなし、これによって自然と呼ばれる秘密の、不可思議な文字の中に隠された詩を読み取らねばならないのである。芸術作品とは、この根源的同一性を絶えず新しく記録することにおいて、同時にこれを裏づける、哲学のドキュメントDokumentなのである(III, 349, 625, 627)」(神林200
「『哲学そして学問の幼年時代におけるこの学は、詩から産まれ、また育まれた。そして哲学とともに哲学によって完成へ導かれるすべての学問は、それぞれに流れとなって出てきた、もとの詩という普遍の大洋へその最後の仕上げを目指して再び流れ還るのである。』(III,629)と。それでは一体、この学問の詩への還帰の中項、現実の分裂せる自然と精神、実在的世界と観念的世界を媒介し、再統合を図るための媒介項とは何なのか。シェリングはその可能性を古代の密儀、「神話」のなかに見出しうるとしているのである。そして、今ここに新たに現実に対応する神話の創造が期待されるのである。(Ebd.)。」(神林200f.
 
「哲学的理念の実在化としての神々の一般的表現が、いわゆる「神話」として与えられているのであるという。そしてシェリングはこの神話こそ、芸術の永遠の素材としての絶対的詩情であるとかたっている(V, 370, 405f.)。ここにいおいてようやく神話の詩的解釈の問題がシェリング美学の展開において、その中心的位置を占めることとなる。」(神林203
 
 
4、Hegel 
ヘーゲルは、芸術を三つの範疇に分けている
「象徴的芸術は内的な意味と外的な形態との完成した統一を求め、古典的芸術はこうした統一を・・・・感性的直観に対して表現することにおいて見出し、ロマン的芸術はその卓越した精神性のゆえにこの統一を乗り越える。」(S.13-39)
象徴的芸術とは、古代ギリシャ以前の芸術(例えば、インド、エジプト、ヘブライの芸術)
古典的芸術とは、古代ギリシアの芸術(彫刻作品)
ロマン的芸術とはキリスト教ヨーロッパの芸術を特徴付けるヘーゲルの術語である。
 
■古典的芸術
「ヘーゲルによれば、内容と形態とが一致した古代ギリシアの古典的芸術こそ(具体的なジャンルに即すれば、古代ギリシアの彫刻作品)こそ、「美の頂点」(S.14-26)、「美の王国の完成」(S.14-1227f)である。「それ[古典的芸術]より美しいものは存在し得ないし、生じえない」(S.14-128)
古典的芸術以前の象徴的芸術は古典的芸術を目指して上昇し、古典的芸術以降のロマン的芸術は頂点から下降するのである。」235
 
「ヘーゲルは、あくまでも「絶対者」(すなわち神)の表現を芸術の本質と見なす。彼が古代ギリシアの芸術を賞賛するのは、古代ギリシアにおいては、ギリシアの神々の特質が芸術の本性と合致しているからである。ギリシアの神々は感性的な形態のうちにその精神性を十全にしめしており、そこには精神的内容と感性的形態との一致が成り立っているが、まさにそれこそが芸術の本来もとめるものだからである。」235
 
「芸術家が表現すべき「絶対者」とは、芸術家にとっての「実体」をなすものでり、芸術家がそれぞれ自らの想像力によって案出しうるものではない。また、こうした実体的な内容を表現する仕方も、この内容それ自体によって必然的に与えられており、そこには芸術家の個性や独自性が発揮される余地はない。つまり、内容面に関しても形態面に関しても、個々の芸術家の創意が関与する可能性はそもそも否定されている」236
 
■ロマン的芸術と「芸術の終焉」
「ヘーゲルによればロマン的芸術は古典的芸術に見られる内容と形態との統一を解消しているがゆえに、ある種の分裂と結びつく。「ロマン的芸術は、芸術であるとはいえ、すでに芸術が与えうるよりも高次の意識形態を支持している」(S.14-27
ロマン的芸術がこうした分裂と不可分であるのは、キリスト教の絶対者観がギリシアのそれと本質的に異なっているからである。」237
 キリスト教の超越神は、感性的なものではない。「それゆえ、ロマン的芸術は、感性的直観に拘束されつつも、それを声他「より高次の意識形態」を指示する。」「「内容」という観点に即する限り、ロマン的芸術は古典的芸術よりも「高次」(S.14-128)なものとみなしうる。」237
 
「思想と反省は芸術を飛び越えたのである。[・・・] かつての時代の民族は精神的欲求の満足を芸術のうちに求め、ただ芸術のうちに見出したのであるが、もはや芸術はこうした満足をあたえはしない。[・・・] ギリシア芸術の美しい日々は [・・・] 過ぎ去ったのである。」(S.13-24)
これがいわゆるヘーゲルの「芸術終焉論」である。
 
■ヘーゲルのシェリング批判
「ヘーゲルは、芸術を単なる娯楽もで欺瞞でもなく、絶対者の把握という使命を有している、と考える点においてシェリングと一致しているのだが、同時に、芸術を「哲学の機関にして証書」と捉えるシェリングの見解を批判する。シェリングの見解は、なるほど古代ギリシアにおいては妥当するであろうが、キリスト教世界には妥当しない。キリスト教世界にあってはむしろ、芸術こそが哲学によってその「真理性を保証される」(S.13-24)
 
■ロマン的芸術の崩壊
「ヘーゲルによれば、ロマン的芸術が進展するにつれて、芸術家はますます自然手k位偶然性に対して関心を寄せ、そのことを通して本来表現すべき内容を忘れ、ただ自然的偶然性を描写することに専心するようになる。これは、本来キリスト教的絶対者を描くべき芸術がその展開を通して世俗化することをいみしている。「芸術は世俗化すればするほど、世界の有限的諸事象に安来、それを特に愛好し、それをそのままの姿で妥当させ、そして芸術家はそれをあるがままに表現することに快感を覚えるようになる」(S.14-221)ここに「ロマン的芸術の崩壊(S.14-222)が生じる。」240
「ヘーゲルが念頭においているのは、オランダの静物画・風俗画である。そこには散文的世界が丹念に描きこまれている。これは「生の散文に根を張り、この生の散文を、宗教的諸条件に依存することなく、それ自体として完全に妥当させる」(S.14-226)ことのできたオランダ人にふさわしい芸術である。芸術は、日常的で偶然的な内容へと関心を向ける」240
 
「ここで描かれる対象はそれ自体としては価値をもたない事象であるために[・・・]「対象からはなれて、表現の手段それ自体が目的となり、芸術の手段を芸術家が主体的に巧み操ることができる、ということが芸術作品の客観的目標となる」(S.14-227f.)何が描かれているが、という内容面ではなく、この内容を芸術家がいかに描いているか、という芸術家の個性的表現様式に人々は注意を向ける。」240
 
■「芸術としての芸術」の誕生
「ある特定の内容や、この素材にふさわしい一定の表現様式に拘束されるということは、今日の芸術家にとっては過去のものとなった。芸術はこうして、芸術家が自己の主体的技量に基づきながら、いかなる内容に対してであれ等しく扱うことのできる道具となった。芸術家は、一定の神聖視された形式や形態化を越え出て、一定の内包にも、また神性にして永遠なものがかつて意識に与えられた一定の直観様式にも依存せず、自由に自ら活動する。」(S.14-235) 242
「芸術は、一定の範囲の内容やその内容の捉え方に固く制約されていた状態から抜け出て、人間的なもの(Humanus)――すなわち人間の信条の深みと高み、人間の喜びや悩みにおける、あるいは人間の努力や行為や運命における普遍的人間性−−を自らにとっての新たな聖域とする。[・・・][ここで表現される]内容は、芸術によって絶対的に規定されてものではない。内容とその形態化を決定することは、[芸術家の]意志的な創意に委ねられている。」(S.14-237f.)
 
「芸術は、絶対者の表現という課題を過去のものとすることで、初めて芸術としての芸術になる。ヘーゲルの「芸術終焉論」は、芸術としての芸術の誕生を証しているのである。」242